御祭神 武振彦命(仙台藩祖 伊達政宗公)
貞山公遺訓
仁に過ぐれば弱くなる。
義に過ぐれば固くなる。
禮に過ぐれば諂(へつらい)となる。
智に過ぐれば嘘をつく。
信に過ぐれば損をする。
氣長く心穏かにして、萬(よろず)に儉約を用て金銭を備ふべし。
儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。
此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。
朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。
元來客の身なれば好嫌は申されまじ。
今日の行をおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆の御暇申すがよし。
【口語訳】
人のためを思う気持ちが強ければ自分が弱くなる。
正しくあろうとする気持ちが強すぎれば考えが固くなる。
人を尊重しようとする気持ちが強ければ媚になる。
利口なだけでは嘘吐きになる。
人を信じるばかりではだまされて損をする。
穏やかな気持ちで倹約し、蓄えをすることだ。
倹約とは、自分が不自由であることを我慢することである。
自分は、この世に来た客と考えれば辛いこともない。
食べ物がまずくても褒めて食え。客なんだから好き嫌いを言うな。
過ぎ行く一日を大切にし、身内の者たちに感謝の挨拶をして、この世に別れを告げるのがよい。

由緒について
建立の歴史
旧藩士、松本らの言うところでは、天保の初年(1831年頃)、政宗公を祀る神社を建てる許しを当時の藩主伊達斉邦が朝廷から得た。仁孝天皇の勅額をもって、城に近い亀岡に社を築く計画だったが、なぜか中止になった。今、士民は貞山講という講を結び、忌日ごとに廟(瑞鳳殿)に集まり酒餞を供している。朝廷が許容してくれれば神明社(現在の桜岡大神宮)の隣に社壇を設け神祭したいという。宮城県は意見を付けずに教部省にとりつぎ、教部省が賛成して、12月22日に太政官が建設を許可した。この年には徳川家康を祀る日光東照宮が別格官幣社に認められており、諸藩の藩祖を祀る神社の創建申請が翌年にかけて全国で相次いでいた。
実際に神社が建てられたのは、仙台城下町を南北に貫いて北に向かう奥州街道(通町筋)が、北山丘陵にぶつかって東に向きを変えるところであり、すなわち、城下一の繁華街であった国分町から一直線に北に向かった突き当たりである。ここには伊達家の菩提寺で北山五山の中心の東昌寺があったが、東昌寺の敷地の西側3分の2が青葉神社に提供され、東昌寺の建物はその東側の満勝寺跡地寄りの現在地に移された。
1874年(明治7年)6月25日に県社に列格されたのを機に、同年7月1日より創営に着手。本殿・拝殿・神楽殿・社務所等を建設し、同年11月11日に落成、同年11月15日に鎮座祭を執り行った。
その後、1922年(大正11年)より社殿の改築を行い、1927年(昭和2年)に現在の社殿が完成した。
平成31年3月 本殿、拝殿含む6棟が、国登録有形文化財に指定された。
仙台・青葉まつり 神輿渡御

起源は、江戸時代・仙台藩最大の祭りの仙台祭まで遡ります。
明暦元年(1655)年に始まったこの祭は、毎年9月17日に東照宮(仙台市青葉区)の祭りとして、藩をあげて行われ盛大なお祭りでした。
町内より多い時では70基の山鉾が城下を練り歩いたそうです。
明治時代になると、明治7年にできた伊達政宗公を祀る青葉神社(仙台市青葉区)の例祭に変わり、政宗公の命日である5月24日に執り行われるようになりました。
この礼祭は、青葉祭りとも呼ばれ盛んに行われていました。
特に明治18年の政宗公没後250年祭や、昭和10年の300年祭には多くの山鉾が市中に出て盛大に行われました。
しかし、昭和40年代後半には交通事情等により途絶えてしまいました。
現在の仙台・青葉まつりは伊達政宗公没後350年を迎えた昭和60年に、長年途絶えていた「青葉まつり」を“市民がつくる市民のまつり”として復活させたもので、今年32回目を迎えます。(27回は、東日本大震災のため中止)現在では杜の都・仙台の初夏を彩り、仙台3大まつりの一つとして、仙台市民はもとより、多くの方々に愛されるまつりとして定着しています。
当社の神輿は、本まつり(5月第3日曜日)に、市内を渡御いたします。